
鼻
気ままな風の精霊の寵愛を受けた青年は、いつもからだをつなげあった気怠るさに何心もなく浸りきって、ひとこと、ふたこと睦言を交わす間もなく、太陽の匂いのする栗色の髪を、夜枕に、まだ抱きたりないこの腕に撒き散らしたまま、墜落するように眠りに堕ちてしまう。
これも人々に強さをもたらす力――サクリアをつかさどるがゆえの因業か、容易く夢魔の手へ陥落することのできない自身と照らしあわせて、その、心を赦しきった寝顔をやや小憎らしく思う一方で、悦びも湧く。
眠りの予兆を孕んだ静かな安息の細波に、否応なく流されてしまうまでのひととき、眼にするものは他にないであろう、精気(オーラ)が極限まで殺ぎ落とされた、風の守護聖の素の造形を腕のなかに閉じこめきって、心ゆくまで眺めるのが、密かな、そして最たる愉しみでもあるから、だ。
いきいきとした表情やあふれる笑顔、空の青を映す活力あふれる眸が閉ざされていると、やけに大人びて整った純な美がくっきりと浮かびあがって、奇麗だ、と率直に思う。
髪に触れ、頬に触れ、くちびるを幽かになぞり、手でゆるい愛撫をつづけながも、眼はその素顔から離れない。
何重もの意味で犯している、と苦笑するが、離れ、られない。
そうやって、飽くこともなくただみつめつづければ、微熱を残してすべらす手ゆびとは裏腹に、いつも荒ぶる炎を抱えた心の奥は、しんとやわらかに凪いでゆくようだ。
ふたりあわさった熱の匂い残る夜闇に独り置き去りにされ、やむなく眠りを待っているようでいて、その実導かれているのかもしれないな、と微笑い、ため息をひとつ、くちづけをひとつ落として、風の守護聖の寝顔を借りて誘惑を囁く夜の女神の腕へと、もはやさほど抵抗することなく堕ちる。
(人の心の狭間には、欲望と云う名の河がある……向こう岸の、名は……)
嫉妬、ときれぎれのつぶやきを泡のようにかすめさせながら、黒い翼もつ鳥――夜の女神に攫われゆく。
いまは甘い睡魔に、ほのかににがい微笑を残して、ふたたび身を灼く眼醒めが、まばゆい陽の光と、精気を取り戻した彼の青年とともに訪れるまで、その、悪魔にも似た黒き両翼に深々と身を預けきって、死んだように、眠る。
まったく無防備なこいびとを、悪食(あくじき)めいて盗みとる、麻薬のごとき就眠儀式。
貪欲にむさぼりつくしたすえだというのにまだ飽きたらず、如何ともしがたい、篭もった欲を持てあまして、こんな痴戯を仕掛けているのは、己れ
独りだろうと思っていた。
夜中、密かに触れてくる〈あれ〉に気づくまでは。
夢とうつつの間の深い淵に沈みきったからだが、こころより先にそのささやかな淡い感触へ、ひく、と反応した。
ゆらゆらとした眠りの端(おわり)で、膚にちかく触れそうで触れない熱がにじんでいるのを感じて、人肌だ、と本能的に、うっすりと思う。
顔を撫でる、ほんのりしたぬくみに無意識に手を延べそうになるが、動けない。
次いで、感じとった温もりより、ややひやりとした弾力あるものがつん、と鼻に触れる。
何だ、とやはりうっすり思う傍から、知っている、くちづけを交わす際、くちびるより先に触れる、おなじ鼻だ……と、ぼぅと思う間もなく、ふたたび、みたび、戯れるように繰りかえされるそれが、ふっと温かく柔かいものへとすりかわる。
くちびる。
段々と湿り気を帯びたそれが、鼻梁をなぞり、鼻さきをなぶり、こどものような熱心さでくすぐったく犯してくるのに、眠りの紗幕ごしの無防備な口から、漏らすともなく鼻にかかった声が漏れた顔前で満足げにゆるむ空気。
殺した息に幽かに含まれる微笑い。
知っている、この笑い、あいつの……
途端、眠りのはざかいを彷徨っていた精神が、急激に醒める。
仕掛けている本人さえ焦らすようにたどり下りてきたそれが、ゆっくりと火照ったような熱さをたたえて、くちびるに重ねられるのと同時だった。
「な――」
にをしている、ということばは半ば以上吸いあげられて、まろび出たのはくぐもったわけもわからぬ声。
「バレた。」
泥棒、俺だけの秘密だったのに、と、やや口惜しそうに、けれど浮かされたように紅潮した顔を蕩かせて彼は笑う。
いつもは朝までぐっすりなのに、貴方と寝た後はどうしてか、からだが熱くて眼が醒めてしまう、と。
どうしてか、なんて。
知りすぎるほど知っている手で、即座にその悪戯な鼻を捻りあげ、痛いな、あいこでしょうと笑う、生意気な彼に――欲望も嫉妬も越えた場所に在った、独りでは得られない美酒に、より一層、深く溺れた。

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